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文部科学省の洗脳教育!?道徳の教科化と「星野君の二塁打」について。

こんにちは、シュンです!

いつも当ブログをご覧いただき感謝しております。ありがとうございます!

 

今回は「道徳の教科化」がテーマです。

 

個人的に、行政が最もお金をかけるべきところは「教育」であるべきと思っていますが、一方でその筆頭官庁である文部科学省の考え方がズレまくっている(と僕は考えている)ため、やはりあんまりお金を持たせるべきではないのだろうなとも思っています。

 

今回は、今年の4月から小学校で教科化された道徳をテーマに、文科省教育のズレについて取り上げてみたいと思います。

元公務員の立場というよりは、子どもを持つ親として公教育を危惧する意味での記事という側面が強いです。




2018年4月から道徳が小学校で教科化された

教科化の背景はいじめ問題

今年の4月から小学校で道徳が教科化(つまり評価の対象となる)されました。

その背景としては以下のようなものがあります。

これまでの小学校には、教科外活動として「道徳の時間」があったが、2018年度から教科化された。早稲田大学教職大学院客員教授・開智国際大学教育学部准教授の遠藤真司さんは、経緯をこう語る。

いじめによる自殺などが社会問題となり、いじめ防止対策推進法(2013年施行)が制定されると共に、“今まで以上に子供たちに道徳心を身につける必要がある”という機運が高まりました。教科外活動だと、評価がつくわけでも教科書があるわけでもありませんし、学校側としてもどうしても比重が軽くなってしまう。学校行事などの準備、練習に振り替えられてしまうということもあったため、きちんと教科として時間を確保したいということなのでしょう」

 

引用 2018.5.19 NEWSポストセブン 池上彰氏 小学校での道徳教科化で「忖度力の養成」を懸念(http://blogos.com/article/298155/

 

いじめを無くすために道徳を教科化しましょうという発想が非常に短絡的だということは直感的に分かりますが、実際問題としてエビデンス(根拠)も特に無いようです。

そのことが以下の池上彰氏のコメントに書いてあります。

 

池上彰氏のコメント

「道徳は、私が小学生のときに導入されました。その当時は、戦前に教えられていた修身のような国家主義的な色彩を帯びる恐れがあると批判の声が高かったので、“教科にはしない”という前提で導入されました。その後、少年事件やいじめのニュースがあるたびに『最近の子供たちには道徳心がない』とか『いじめが増えている』という議論が起こり、道徳を教科にすることになったのです」(池上さん)

 しかし、池上さんはその議論自体に疑問を持つ。

「警察白書(警察庁)によると、刑法犯少年の検挙数は、2007年の10万3224人から、2016年には3万1516人と、ここ10年でも格段に減っています。また、国立教育政策研究所の分析では『いじめの件数は増えていない』という結果が出ている。つまり、“根拠なき議論”です。日本はデータに基づかない印象論で政策が決まるという大きな問題点を抱えていますが、道徳の教科化はまさにそれを体現したといえます」(池上さん)

 教科になったからには、テストがあり、成績もつく。物事についての多様な考え方を学ぶはずの「道徳」で果たして成績をつけることができるのだろうか。

「十人十色あっていいはずの生き方や考え方、価値観が“評価”されることになります子供たちは賢いですから、先生が求める“正解”を察知します。結局、全国の学校で“忖度力”を養成することになりかねません。まあ、財務省の官僚を養成するにはいいもかもしれませんが──。

教える先生たちは、“世の中に唯一の正解などはない。いろんな正解があり、いろんな不正解がある。どんな答えが求められているのかを探るのではなく、自分の頭で考え抜く習慣をつけよう”と働きかける必要があると思います」

 

引用 2018.5.19 NEWSポストセブン 池上彰氏 小学校での道徳教科化で「忖度力の養成」を懸念(http://blogos.com/article/298155/

あまりにも真っ当なことを言っているので中略もせず全文載せてしまいました。

 

要は、

  • 道徳を学べばいじめが減るなどという根拠は無い
  • 「評価」がされるため、良い評価を貰うために「教師が求める正解」を察知する能力は身につくかもしれない
  • 答えなど無い世の中において、答えを探る能力よりも自分で考える能力のほうが重要

という話です。

 

そして、「評価」をするための「答え」が非常に危険になりそうな事例を以下で取り上げていきます。




「星野君の二塁打」という話が道徳の教科書に掲載

「星野君の二塁打」のあらすじ

「星野君の二塁打」という話が、道徳の教科書に掲載されています。

 

あらすじは以下です。

  • 甲子園出場がかかる試合の最終回、ランナー1塁の場面
  • 監督は星野君にバントを命じる
  • 星野君は打てそうな予感がしたので咄嗟に打ちに行った結果2塁打となる
  • 次のバッターの犠牲フライでランナーがホームに還り甲子園出場を決める

 

しかし、、、

 

ということで以下続きます。

いくら結果がよかつたといつて、統制をやぶつたという事実にかわりはないのだ。――いいか、諸君、野球は、ただ勝てばいいのじやないぜ。特に學生野球は、からだをつくると同時に精神をきたえるためのものだ。団体競技として共同の精神を養成するためのものだ。自分勝手なわがままは許されない。ギセイの精神のわからない人間は、社会へ出たつて、社会を益することはできはしないぞ。

(中略)

「星野君はいい投手だ。おしいと思う。しかし、だからといつて、ぼくはティームの統制をみだしたものをそのままにしておくわけにはいかない。罪にたいしては制裁を加えなければならない。――」  

(中略)

「ぼくは、星野君の甲子園出場を禁じたいと思う。当分、謹慎していてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは甲子園の第一予選で負けることになるかも知れない。しかし、それはやむを得ないこととあきらめてもらうより仕方がないのだ。」

引用 「星野君の二塁打」吉田甲子太郎著

 

この作品は1947年の作品であること、作者の吉田甲子太郎という人は戦前をメインで生きた人物(1894〜1957)だということに留意をする必要があります。

 

この作品の指導案について

これがディスカッションの教科であれば特に問題は無いと思います。

この作品に対し、賛成派と反対派でディスカッションをさせて、色んな立場の意見があるんだなぁという学びをするのであればいいですが、あくまでこれは道徳という教科の教科書です。

 

教科として評価をする以上、一定の「答え」らしきものが必要になります。

 

調べたところ、いくつかの市や県ではこの作品を通しての指導案があったため、某県の指導案を抜粋してみます。

(4) 規則やきまりは何のためにあるのか、体験をもとに話し合う。

自分の内にある規則を尊重する態度を自覚すること

※小集団での話し合いをさせ、規則やきまりの意義を公徳心とつないで考えるよう整理する。

3 教師の説話を聞き、本時学習のまとめを手紙にまとめる。
(1) 教師の説話を聞く。
(2) 星野君への手紙を書き、本時学習内容に対する自分の見方・

考え方、感じ方の変容をまとめる。

規則を尊重する生き方の日常化への意欲を高めること

※自分との比較、自分の考えの変容という観点から星野君への手紙を書かせる。

 

他のところも概ね上のような指導案でした。(文科省がある程度方向性を示しているということでしょう)

 

要は、「お上が決めた規則には従うべきです」「従わない者は悪い人間です」というのを植え付けるための典型的な洗脳目的の指導案ですよね。

 

正直、こういったものが義務教育の中で教科化され、一定の答えらしきものが示され、評価がつけられていくというのはなんとも言えない恐ろしさを感じます。




実際の野球現場だって意見は割れている!

あくまで野球を比喩として規則を守るべきということを教訓にしているというお話ですが、実際リアルな野球現場の話として、「ベンチからの指示を破ってもいいか?」というテーマについて特集した記事がありました。

 

「指示破り」に「あり」と答えた監督は60人(41%)、「なし」は76人(52%)だった。一方、主将への同じ質問では「あり」40人(25%)、「なし」115人(73%)。選手たちの方が、監督の指示に忠実であろうとしていることがうかがえる。

(中略)

【あり】

・選手が打席で感じ、判断したことであれば納得

・理由や根拠がしっかりしていれば、むしろ奨励している

・選手には思いっきり自分の思うとおりにプレーさせてあげたい

・自分たちで判断できるチームの方が成熟している

【なし】

・チームをまとめるのは監督。選手は監督を信じて行動する

・結果論では経験にならない

・監督、選手間の信頼関係を大事にしないのは、高校野球ではない

・勝利は選手のおかげ、負けは監督の責任。負けの原因が選手にいかないよう、指示には従ってほしい

 

引用 2017.6.26 朝日新聞 ベンチからの指示、破ってもいい? 監督や球児の考えは(http://www.asahi.com/koshien/articles/ASK6S4DY9K6SUTNB002.html

このように、実際の野球の現場だって色々な意見があるということです。

(多様な意見があること自体には個人的にも何ら異論はありません)

 

その上でも、「規則を尊重する生き方の日常化」などといった「一つの答え」を目的に掲げる指導案などというものはとんでもなく時代錯誤のものであると言えるでしょう。

 

まとめ

教育にお金をかけることはとても重要だと思います。

ただ、こういった訳の分からない(時代遅れ、的外れ)教育を主導する文科省に予算を多く渡すのは危険極りないなというのが率直な意見です。

 

画一的な指示に従ってやっていけば上手く行くというのは人口がどんどん増えていった高度経済成長期までの話です。

今後急激に人口減少が進んでいくという、日本が今までに直面したことが無い、すなわち正解が無い時代において、正解を示そうとする教育が通用しないのは明らかです。

 

今回は、自分の子どもの将来のことを考えるのであれば、どういう学校を選ぶかということは本当に慎重にならなければならないということを真剣に考えた事例だったので取り上げてみました。

 

今回も貴重なお時間の中で文章をご覧いただきまして、本当にありがとうございました!

 

>>こういう方針を打ち出す行政的な考え方を詳しく知りたい方にはこちらの記事もオススメです。

公務員に向いてる人の特徴!でも向いてない人のほうが出世する?

POSTED COMMENT

  1. ゆう より:

    記事全部読むようにしています。現職で今監査や会計の仕事をメインに異動中です。
    作者の本当の意図はわからないのですが、戦後始まった新しい政治体制の大切さについてそれを野球に例えたのかなと思いました。
    例えるなら、選手たち(主権者または官僚)・監督(公選職)・作戦(法令)・星野君(「結果として」国家に利益を与えたが、その過程で法令を犯した)・出場停止(刑罰)でしょうか。
    ※監督は元作品の解説では「選手たちが同意して」学校が迎え入れた監督(選挙で選ばれたと解してもいいかな)で作戦については監督一任としていた。

    実際は野球規約?いう上位法令があり、法令(特に条例規則のレベル)には例外を認める規定があるから、私なら星野君から理由を聞いて結果については評価しつつ、その手段をとることによるリスクと考える損害を説明して普通に出場させるでしょうか。怖いのは何をやってもいいんだという増長と、仮に今後失敗して怒られたらそれが逆恨みに変わる(失敗の責任を自己に帰さない)。
    「犠牲」については自己(自所属)の利益(元ネタ的には土地・お金・地位でしょうか)を損なったとしても全体の決定に従属しないといけないという意味でしょうかね(特攻隊やひめゆり隊を想定して不快・無神経という元文科省の寺脇氏の記事を読んだことはあります)

    道徳より主権者教育とかで取り上げた方が良さげな小説ですね……
    もしくは自分の主張(文科省の意図)を通すために一定の評価を受けたコンテンツやデータを利用する(部分引用)ことのあり方とか
    現場の裁量とか特定の状況においてルールを逸脱するということのありかた(賛否ではなく条件を考える)

    • シュン より:

      ゆうさんこんにちは。
      いつもブログをご覧いただいているということで、心より感謝申し上げます。

      大変深い考察をありがとうございます。

      僕としては、まだ善悪判断がまともにつかない子どもに対し、ある意味何かの答えのようなものを押し付けるやり方は大いにまずい、それはまさに洗脳であるというふうに思っています。

      もしこの教材も、「監督の判断についての是非を議論させる材料」であれば良いのだろうと思います。
      その上で、どちら側の意見についても裁定をくださない。
      多様な意見があるということを学ぶということであれば意味があります。

      問題は、某県の指導案のように、明らかな意見の押し付けを意図していることです。

      そういう押し付けを、価値観が固まっていない子どもに対して行うことは、非常にまずいと思うわけでございます。